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みなさんは、日本に今から80年以上も前にフレスコ画技法を使って壁画を制作していた人物がいることをご存知でしょうか?その人の名は、画家『長谷川路可』。日本におけるフレスコ画のパイオニアと呼ばれる人物です。私は現在、「出光文化福祉財団」からの助成を受けて、彼が描いたフレスコ画作品の保存状態調査と技法研究を行っています。今回は、日本に西洋の壁画技法をもたらせた『長谷川路可』という人物をご紹介したいと思います。 『長谷川路可』という人物の略歴をご紹介しましょう。 彼は1897年に東京に生まれます。東京美術学校で日本画を学ぶと、1921年、卒業と同時にフランスへと留学。今でこそ海外へ留学することは珍しい事ではありませんが、当時を考えると非常に勇気ある決断であったといえるでしょう。フランスで彼は洋画技法を学ぶことに専念します。その後、ヨーロッパ各地を転々としながら、ルーヴル美術館や大英博物館などに所蔵されている西域壁画のコレクション模写に明け暮れます。その背景には次のようなエピソードがあります。当時、ヨーロッパの様々な国では、アジア西域の遺跡を発掘調査するために探検隊を派遣することがある意味ブームのように起こっていました。そして、一連の調査の中で壁画が発見されると、その主要部分を壁から剥ぎ取り自国に持ち帰るということが頻繁に行われていたのです。この現状に心を痛めた東京帝國大學や京都帝國大學の教授らは、何とかこれらの壁画を模写することはできないだろうかと考え、その依頼を出したのが、フランス留学中の長谷川路可だったという訳です。当時長谷川が模写した作品は、現在も東京国立博物館や東京藝術大学、もちろん依頼元である東京大学や京都大学にも所蔵されています。 1927年、日本に帰国した長谷川路可は、日本画のみならずヨーロッパで学んだ西洋の絵画技法を駆使しながら数々の作品を制作してゆきます。この中で使われた絵画技法のひとつが、日本ではそれまで誰も知らなかったフレスコ画でした。西域壁画の模写の仕事を終えた彼は、フランスに戻りこのフレスコ画技法やモザイク画技法を学んでいたのです。日本で初めて制作されたフレスコ画は、依頼を受け個人宅の礼拝堂に描かれます。ここで、「礼拝堂に壁画を制作?」と思われた方がいらっしゃるのではないでしょうか。実は、長谷川路可は1914年にカトリックに入信しており、それまでにも水墨画などで宗教画を制作していました。また、ヨーロッパ留学中にもカトリック美術を学んでいた経緯があったのです。(入信時には洗礼名「ルカ」を授かっており、ここから雅号を「路可(ろか)」としました。ちなみに本名は龍三といいます)その後、長谷川が壁画を制作した個人礼拝堂はカトリック喜多見教会に献納されるのですが、1978年に教会の移転が決まるとストラッポ法により壁から剥がされ、移転先の小聖堂の中に設置されます。昨年、このカトリック喜多見教会は閉鎖されることになったのですが、長谷川路可の作品は、聖セシリア女子短期大学に寄進され、現在も大切にされています。 長谷川路可は大学などで教鞭をとりながら、数々の作品を世に生み出してゆきます。そんな中、カトリッ教会の総本山であるヴァチカンより大きな仕事の話が舞い込んできます。1950年、聖年に際してイタリアに渡っていた彼は、ローマの北方に位置する街チヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会への壁画制作依頼を受けるのです。こうして、構想から壁画完成まで実に10年近い歳月をかけて、日本二十六聖人殉教大壁画をおおよそ完成させるのでした。 フレスコ画の本場イタリアでの貴重な経験を経て技術に更なる磨きをかけた長谷川路可は帰国後、弟子達と様々な場所にフレスコ壁画やモザイク壁画を制作してゆきます。近々、建て替えが計画されている国立競技場のスタンドに、モザイク用ガラスを使ってモノクロの『野見宿禰像』と『ギリシアの女神像』が設置されていることをご存知ですか?実は、あの作品も長谷川路可によって1964年に制作されたものなのです。 1966年。長谷川路可は、日本二十六聖人記念館からの依頼を受けて長崎に向かいます。そして『ザヴィエル像』と、チヴィタヴェッキアでも取り組んだ日本二十六聖人に纏わる物語をテーマに、『長崎への道』という壁画を制作します。しかしこの時、路可は心臓病を患い制作中にも入院するなど、その身体は着実に弱っていたのでした。長崎での仕事を終えた長谷川路可は、チヴィタヴェッキアでの壁画制作継続と、新たな作品制作の交渉のためにイタリアへと渡ります。しかし、その先で脳溢血を発病すると、その3日後に帰らぬ人となったのでした。亡くなった日の6日後には70歳の誕生日を控えていた長谷川路可。波乱万丈な人生の中で多くの芸術作品を生み出してきた彼にとって、長崎で制作した『長崎への道』が遺作となったのでした。 先日私は、このフレスコ画作品『長崎への道』を調査するために、長崎にある日本二十六聖人記念館を訪れました。館長さんをはじめ、関係者の方々にお話を伺いながら作品を調査していると、壁に向かい絵筆を走らせている長谷川路可の姿が蘇ってくるようでした。彼がヨーロッパでフレスコ画という技法に着目し、誰よりも先に日本美術界に持ち込んだ功績は高く評価されるべきであると私は思います。日本におけるフレスコ画のパイオニア『長谷川路可』のフレスコ画作品に、みなさんも是非注目してみて下さい。 なお、現在も継続中である調査研究内容につきましては、このブログの中でも随時ご紹介してゆきたいと考えています。是非お楽しみに!!
by affresco-bastioni
| 2014-05-20 21:00
| 修復家の独り言
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