カテゴリ
以前の記事
2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 10月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 08月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 リンク
ライフログ
最新のトラックバック
検索
ブログパーツ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
500年の時を経て、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた壁画のボッツェット(下絵)が発見されました。場所はミラノにあるスフォルツェスコ城の一室です。このお城はミラノのドゥオーモから約800mの距離にあり、現在は観光名所のひとつとして一般にも公開されており、広い敷地内には絵画作品や考古資料を展示する美術館や博物館なども設置され、世界中から多くの観光客が訪れています。 このスフォルツェスコ城が建設されたのは1450年のこと。イタリアの貴族ヴィスコンティ家の居城として、ミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァの指示のもと建設されました。ヴィスコンティ家からスフォルツァ家に支配権が移り、フランチェスコ・スフォルツァの長男であるガレアッツォ・マリーア・スフォルツォが後継者としてミラノ公国の領主となると、1468年の予定されていたボーナ・ディ・サヴォイアとの結婚を前に、スフォルツェスコ城の大改修工事を行います。この時、城内にある数多くの部屋には壁画装飾が施され、その荘厳な空間表現は当時のスフォルツァ家の偉大さを象徴するものだったといいます。 1476年にガレアッツォ・マリーア・スフォルツォが暗殺されると、その息子であるジャン・ガレアッツォ・スフォルツァがミラノ公を7歳のときに継承。続いて、1494年には、フランチェスコ・スフォルツァの四男であるルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァが後を継ぎ、芸術家らの活動を支援するパトロンとして歴史に名を刻みます。当時、宮廷には数々の芸術家や知識人が招かれていたのですが、1498年、その中にはあのレオナルド・ダ・ヴィンチの姿もあったのでした。当時、芸術家として既にその名を轟かせていたレオナルドは、1482年からミラノ公国に滞在しており、1495年から1498年にかけてはあの世界的に有名な『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会)も制作していましたから、声が掛かるのも当然だったといえるでしょう。 この時、レオナルドは、現在『板張の間』“Sala delle Asse”と呼ばれる部屋(本当の名前は『桑の木の部屋』 “Cameradei Moroni” ですが、側壁に木の板が張り巡らされていることからこう呼ばれるようになりました*下部写真参照)の壁画装飾を依頼されます。その題材には自然の雄大さや力強さを感じさせる植物が選ばれ、ヴォールト天井には複雑に入り組んだ木の枝が。側壁には天井へと続く木の幹と、重なり合う岩の間にずっしりと根を下ろす様子が描かれたのでした。しかし、この部屋の壁画装飾完成を目前にした1499年のこと。第二次イタリア戦争が勃発します。フランス王ルイ12世率いる軍勢はミラノ公国に戦いを仕掛け、スフォルツァ城も包囲されてしまいます。ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァはこの戦いに敗れ、レオナルドは弟子と共にヴェネツィアに避難を余儀なくされると、1500年には故郷のフィレンツェへと帰還するのでした。こうして完成半ばで放置されることとなった部屋はその存在意義を失うこととなります。 その後、時は流れてミラノの支配権はフランスからスペイン、そしてオーストリアへと移ってゆきます。1706年の記録では、城は兵舎として使用され、レオナルドが壁画を制作していた部屋も新たに塗り重ねられた漆喰に覆われ、騎馬砲兵の避難所として粗雑な扱いを受けていたといいます。 1893年、ドイツの美術史家ポール・ミューラー・ヴァルデによってようやく本格的な修復調査が行われます。その結果、ヴォールト天井を中心とする漆喰の下からは、レオナルド・ダ・ヴィンチによる未完の壁画が姿を現し、長い年月を経てようやく人々の記憶に呼び戻されることとなったのでした。その後、1901年には大規模な修復が始められますが、ここで大問題が発生してしまいます。建築家ルカ・ベルトラーミの指揮のもと始まった修復は、画家エルネルト・ルスカに委ねられたのですが、その方法とは当時の一般的な処置方法のひとつであった、作品の上から顔料を描き加えるというものだったのです。修復が終わると、板張の間は一般に公開されることとなります。ここでその仕上がり具合を観た美術評論家は、「もはやこれはレオナルドの作品ではない」と口にしたといいます。 それから50年が経過した後、保存修復に対する捉え方が大きく変わると、現代の修復哲学に通ずる「オリジナル性を尊重する」という考えのもと修復が行われます。1901年に塗り重ねられた顔料は拭い去られ、何とかレオナルドが描いた部分だけを残そうという方針がとられたのでした。こうして天井部分を覆っていた画家エルネルト・ルスカの加筆箇所は拭い去られ、再びオリジナルの輝きが取り戻されました。 2006年、壁画の一部に傷みが見られることから現状保存状態の調査が行われます。ここで、再び保存修復の必要性が指摘されると、直ぐにプロジェクトの草案がまとめられたのでした。その主な目的は、作品の傷みの原因を究明することと、最新の分析技術を用いた加筆箇所の特定と除去、そして、鑑賞困難な状態にある作品の画面を整えるというものでした。この一連の保存修復の流れが、今回の大発見に繋がることとなります。側壁の漆喰を調査したところ、オリジナルとは明らかに異なる後世の時代に塗り重ねられた漆喰が確認され、その調査を進めてゆくと、木炭で描かれたボッツェットが見付かったのです。専門家による調査の結果、この下書きはレオナルド・ダ・ヴィンチによるものであると判断され、長きに渡り人の目に触れることのなかった作品の一部が明らかとなったのでした。ちなみに、天井に描かれた木の枝は鮮やかな色彩で表現されていますが、側壁に関しては白と黒のコントラストで描かれた下絵であることから“モノクローム”と呼ばれています。戦争が起きなければ、ここにも様々な色が塗り重ねられ、人々の目を楽しませたことでしょう。なお、ここでもレオナルドは、『最後の晩餐』同様、油彩画で天井部分を描いています。 今回の発見に繋がった側壁の漆喰層調査は、メスなどを使って慎重に漆喰の表面を削ぎ落としてゆくというものでした。これは、壁画の保存修復において必ずと言って良い程行われるものです。通常古い建物の壁は過去に塗り重ねられていることが多く、表面から各層を削り出してゆくことで、壁の構造や作品の残存状況の確認をすることができます。今回の調査では、側壁における最も塗り重ねの多い部分に関しては、実に13層にも及ぶことが分かりました。この調査により、レオナルドがボッツェットを残したとされる漆喰層が明らかとなったことで、今後は超音波装置やレーザー、小型ハンマーなどを使った漆喰の除去作業が進められてゆきます。 今後も、更なるレオナルドのボッツェットが漆喰の下から発見される事は間違いなのではないかと言われています。この保存修復事業に充てられた予算は日本円にして約2億円。現在は、2015年に開催予定のミラノ国際博覧会(EXPO 2015 MILANO)での公開に向けて、急ピッチで作業が進められています。レオナルド・ダ・ヴィンチの完成予想図はどんなものだったのか…その全貌が明らかとなる日は直ぐそこまでやって来ています。
by affresco-bastioni
| 2013-11-18 21:00
| 修復家の独り言
|
ファン申請 |
||